アラロワ おぼろ世界の学園譚 | 004 スモールスモールサークル | 第24話 モーニングルーティーン。(和の視点)

モーニングルーティーン。(和の視点)

 そういえば、亡くなった祖母ばあちゃんがよく言っていたっけ。「物を食べながら勉強したら気散きさんじになって頭に入らないよ」って。
 祖母は時々、耳慣れない言い回しを使っていた。「手暗てくらがりになるから、明るいところで本を読みなさい」とか、もっと幼い頃は「遅くまで起きていると子取ことりが来るよ」とか。当時の僕は意味がわからなくて、「小鳥に会えるんだ」と思い込み、かえって夜更かしをしてしまったこともある。
 しかし、あの祖母ばあちゃんの記憶はどちらのものだろうか。あっちの世界祖母ばあちゃんが言っていたのか、それともこっちの世界の過去の記憶なのか。そして、祖母ばあちゃんは本当にこの世を去ったのか。
 顔を思い出そうとする。声を思い出そうとする。だが、ぼやけたイメージの輪郭さえ掴めない。唯一確信が持てるのは、祖母ばあちゃんは存在していたということのみだ。

 学校へと続く、いつもの道を歩く。最初の頃と比べて、その場所を歩いていなくても、明確に思い浮かべられる風景が増えてきた。たとえば、まだほとんど話したことはないけれど、同じクラスの三谷みだにさんの家を通り過ぎて、さらに二、三分歩くと、ひよさんの家が見えてくる。その景色は毎朝いつも変わらない。
 市島いちじま先輩や、曽我井そがい先生の言葉にならえば、認識が定まったということになるのだろう。この通学路、つまり世界のこの一部分は既に安定した状態にあるということ。
 けれど、これはあくまで自覚者である自分特有の解釈で、では自覚していない者は、どういう感覚でこの道を歩いているのだろうか。
 不安定な場所を通った時に僕が感じる違和感を、彼らは共有していないということなのだろうか。
 考え始めると止まりそうにない。気づけば、ひよさんの家のすぐ目の前に立っていた。僕はインターホンを押すでもなく、ただ門扉の前にたたずんでいる。ひよさんはすぐに姿を現すのか、それともしばらく待つことになるのか。
 三谷さんの家のあたりで、僕はひよさんにメッセージを送信している。これも毎朝のルーティーン。「もうすぐ着きます」と書かれた、僕のメッセージの下には、既読のサインがついている。返信がないということは、つまりひよさんの用意がまだできていないという意味だ。
 もっとも、ひよさんが僕に嫌悪感を抱いて、避けようとしているのでなければ、の話だけれど。
 僕はひよさんの家の前に立ちながら、その可能性について思いを巡らせた。もし僕の存在のせいでも、ひよさんが家から出られないのであれば、ここで待つタイムリミットは何分先ぐらいだろうか。このまま返信がなく、玄関の扉が開かないなら、「今日は先に行きます」とメッセージを送り、静かにこの場から立ち去ればいい。
 親に伝言してもらうとか、ひよさん自身から「先に行って」とメッセージをくれる可能性も考えられるけれど、できる限りひよさんに自発的に動いて欲しくない。そのことでまた、心理的負担が増すことのないよう、気遣いは徹底しなければならない。僕がそう決めているのだから。
 立ち去る準備の判断に至る前に、すぐに扉の鍵を回す大きな音が響き、ほどなくしてひよさんが家から姿を現したので、僕はほっと胸をで下ろした。
「おはよう。待たせてごめんね」
 うつむき加減にひよさんが言う。僕は「別に待ってないよ」という意思表示を込めて、努めて紳士的に、
「忘れ物ない? 慌てなくてもいいからね」
 と、返した。
「あ……あのね、酔い止めの薬は家にはありませんでした」
 ひよさんが控えめな声で、申し訳なさそうに伝えてくる。彼女の言葉に敬語が混じっているのは、僕への警戒感がまだ解けていないからかもしれない。だけど、これぐらいの距離感が、僕たちにはちょうどいいのかもしれない、とも思う。
 僕は「ちょっと待って」とひよさんに告げてから、背負っていたリュックを胸の前に回した。ファスナーを開け、用意しておいた、一回分の酔い止めの薬と小型のミネラルウォーターのペットボトルを取り出す。
「ここで飲んでいこう。これ、効くまでに三十分かかるらしいから」
 僕の提案にひよさんは小さくうなずき、黙って薬と水を受け取った。彼女はペットボトルの蓋を開け、首を何度か前に振ってから、慎重に薬と水を飲み込んだ。
 その仕草は可愛かわいらしく、弱々しい小さな動物のように思えた。
 学校に向かう道中、僕たちは他愛たわいもない話をする。「昨日先生がさ」「木槌きづち山って行ったことある?」なんて、僕はひよさんに話し掛ける。
 ひよさんも「今日のプログラムよく覚えてなくて」「ちゃんと上手うまくやれるかなぁ」と素直に会話を返してくれる。
 穏やかで、落ち着いた時間だった。僕はもう少しこの時間が続けばいいのに、と思い始めたが、赤い煉瓦れんがの壁の端を、曲がった少し先にもう稲継いなつぎさんの姿があった。
 稲継さんとの距離が、少しずつ詰まっていく。稲継さんは僕を一瞥いちべつし、「はあ」と大げさにため息をついた。
「おはよう、ひよ。おはよう、柏原かいばら
奈央なおちゃん、おはよう」
 ひよさんが、微笑ほほえみながら稲継さんに言う。僕も軽く挨拶をする。
「ひよ、今日大丈夫? 結構バスの時間長いみたい」
「なごさんに酔い止めもらって飲んできたから、たぶん大丈夫だよ」
 ひよさんの言葉に、稲継さんは小さく息を吐き、僕の方を軽くにらみ、あきれたように一言漏らした。
「オカンかよ……」
 稲継さんは、やや強引にひよさんの肩を引き寄せた。その瞬間、僕のお役目は一旦幕を閉じることになる。


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