アラロワ おぼろ世界の学園譚 | 005 おはようチーさん | 第38話 漢(おとこ)同士の対話。

第38話 漢(おとこ)同士の対話。

 ――教室を出る二人の足音が遠ざかるか遠ざからないかのうちに、誰かが教室に入ってくる。オレはてっきりお嬢かルルコが忘れ物でもして戻ってきたのかと思ったが、視界に入ったのは見知らぬ人影だった。
 反射的に動きを止めたオレだが、尾びれで直立したまま固まってしまった。これでは逆に目立ってしまう。普通のぬいぐるみではあり得ない姿勢だ。
 眼鏡姿の男子生徒の鋭い視線が、オレを射抜く。オレの背中から冷や汗が流れる……わけはないが、漫画的な表現で言えば全身から汗が噴き出して飛び散っているような感じだ。
「チーさん……?」
 男子生徒がゆっくりとオレの高さまで身をかがめ、顔を近づけてくる。
「あ! お前、モノじゃねえか。なんなんだ、変なイメチェンしやがってよ!」
 オレの知っている新田しんでん物朗ものろうの姿と、目の前の、眼鏡の男子生徒の姿があまりにもかけ離れていて、すぐに認識できなかった。
「てか、ルルコといいお前といい、高校生になったからって雰囲気変え過ぎなんだよ。浮かれちまってんのかよ。いやまあ、お嬢の小学生の頃からの変わらなさは、あれはあれで問題があるような気もするけどよ。まあそのおかげで、オレみたいなぬいぐるみを抱えていても、そこまで違和感を抱かせない幼さっていうのか? 純粋さっていうのか? 助かってる部分もあるんだけどよ。いやまて、さっきお嬢とルルコが、ものはまだ記憶が安定していなくて、オレのこともたぶん覚えていないだろうって言ってたぞ。お前、どういうことだよ。オレに話しかけられても、ビビりもしねえじゃねえかよ」
「いやチーさん、ちょっと俺にもしゃべらせてよ」
 モノに制止され、オレは自分の長広舌ちょうこうぜつに気づく。黙って、モノの言葉を待つことにした。
「実は俺、もうほとんど記憶は戻ってるんだよ。だけど、あの二人にはなんとなく言いにくくて……」
「相変わらずめんどくさい性格してやがんな。まあいいや、モノ。お前のその性格を見込んで、オレの好奇心を満たすために協力して欲しい。お前はいつ、どうやってこの世界が別の世界だと気づいた?」
 モノが顔を上に上げ、天井に視線を向ける。そして、思考が整理されるのを待つかのように少し間を取ってから言葉を発する。こいつのこの仕草、相変わらずだ。
「気づいたというか……市島いちじま先輩から説明を受けて、に落ちた……って感じかな。それまではただ、記憶が混濁していて、何が起こっているのかもわからなかったので」
 市島先輩の名前は、お嬢やルルコからも出ていた。二年の市島は、お嬢らの記憶が朧気おぼろげになった後、すぐに学校でコンタクトを取ってきたようだ。そして、お前は自覚者だと告げる。
 記憶の混濁にもそれぞれパターンがある。お嬢は家の周りの風景が違っていることに気づき、地名を思い出せなくなった。ルルコは買い物に行った時、いつも通っているスーパーの店名が違うように感じ、買い慣れた商品がどこにも見つからなかった。
「モノ、お前の記憶がおかしいと感じたきっかけはなんだ?」
「推しの人気がまるでなくなってたことかな。超売れっ子だったのに、知名度がゼロだってラジオで愚痴ってて。賞レースで準優勝したはずなのに、そんな事実もなくなってた。俺、最初はてっきり再放送してるんだと思ったんだけど。でも、よくよく聴いていると違和感があって」
 モノが再び上を向き、目線を彷徨さまよわせる。まるで空中に浮かぶ言葉を探すように、視線をゆっくりと動かす。
「あと俺、今の世界になってからこの外見なんだけど、ずっとこうだったって思い込んでたんだよ。これ、俺の推しの風貌に似せてあって」
「それでお前、そんな陰キャ眼鏡童貞野郎っぽい格好に……なるほどな」
「ひらっちさんに失礼すぎるでしょ!」
 しかし結局のところ――モノが自覚に至るきっかけも、他の者と同じく些末さまつな出来事だとわかった。
「なあモノ。オレはどうしても、ここが別の世界だと信じられないんだよ。お前はどうして、納得できたんだ?」
「俺も最初はわけがわからなかったよ。だけど市島先輩の話を聞いたり、他の自覚者と交流したりしているうち、……信じられるようになったっていうか。他に考えられないような体験もしたし」
「他に考えられないような……か」
「あと市島先輩に、変わった実をもらって食べていたんだけど」
 実だと? オレの中のセンサーが反応し、警報を鳴らす。怪しい方向に話が転がり始めた。
「おい、なんかヤバいブツ食わされてんじゃねえか。それ、他のやつも食ってたのか?」
「それはわからない。たぶん、ひととるるは食べてないと思う」
 お嬢らが食べていないと聞いて胸をで下ろしたが、すぐに我に返る。今は安心している場合じゃない。
「最初に食べた時、まったく経験したことのないような感覚に陥って……。それで、これはちょっとヤバいんじゃないかって思った。それを食べたところで記憶が書き変わるとか、そんなことはなかったんだけど、まあ少し落ち着いた気持ちにはなって。疑問が抜けるというか」
「疑問が抜けるっていうのは、よくわかんねえな」
「あまり違和感が気にならなくなったってことかな……。ただ、続けるとヤバい気がしたから、途中からは食べた振りをして捨ててたよ。るるに言われたのもあるし」
 モノが来る前の二人の話の中で気づいたが、おそらくルルコは市島先輩のことを警戒していた。
「なんとなく、七哉しちやさん……」
 オレは跳ね上がって逆立ちし、尾びれを振り回してモノの頰に一発見舞った。名前を間違えちゃいけねえな。
「……もとい、チーさんが昔に話してた、怪しい薬の話……あれと被ってしまって、怖くなったんだよ」
「あれだ、お前は賢明だと言えるな」
「だから俺は、ここは別の世界だとは思うけど、何かを隠されているとも思ってる。それはたぶんルルコ……じゃない、るるも同じなんじゃないかな。ひとはわからないけど」


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