しょっぱい方舟 (2)
カナサ夫妻の出航から一年が経った。
もはやこの地上に残された者は数少なく、意思の疎通が困難な者や、感情を失った者がほとんどになっていた。
残された自発的に行動可能な者たちは、それが生きている証しだとでも言うように、必要以上に大きな声で笑ったり、性的快楽に耽ったり、もう決して誰も読まないだろう物語を綴った。
当然、ドブニコもそうだった。
私は時折、ドブニコが新しく書き上げた作品を手渡された。長いもの、短いもの。ドブニコは感想を求めることがなかったので、私も感想を言うことがなかった。ただただ、受け渡しを繰り返すのみだ。
いつものようにベッドの上で体を重ね合わせた後、ドブニコは思い出したように裸のままテーブルの前に立ち、乱雑に積まれた紙束の中から数枚を取り出し、
「新作できたよ」
と、私に渡してきた。
一頁目に『しょっぱい方舟』と題名が書かれている。
「今日中に読むよ」
「しょっぱいヘドだなぁ」
ドブニコは笑った。
闇はもうかなり深くなっていた。そろそろ酸素を焚かないと、またドブニコが息苦しくなってしまう。
けれど、私とドブニコのしょっぱい生活は突如として幕を閉じた。
赤いフードで顔を覆った何者かが、ドアを破って部屋に侵入してきたのだ。
ドブニコは叫び声を上げながら部屋の隅へと逃げ込み、手に触れるものを次々と投げつけた。しかし、その何者かはひるむことなくドブニコを追い詰め、簡単に捕らえてしまった。
ドブニコは服を着る時間だけを与えられ、泣きべそをかきながら何者かに港へ連れて行かれることになった。
私はその後をついて行く。
「ごめんねヘド、一緒に行きたかった」
私は、特に何も思いつかなかったので黙っていた。
並んで歩く、赤いフードの何者かに、ドブニコが話しかける。
あちらに行ってもこちらに連絡する手段はないのか、あちらではどういう生活をしているのか、家族は元気にしているのか、など。何者かは質問に何一つ答える気がないようで、港に向かう一行で喋っているのはドブニコひとりだった。
天へ旅立つための港とはいえ、ここは元々海に面した港湾で、強い潮風が体を錆びつかせそうになる。
船着き場、いや発射台と呼ぶべきか。最初は港に停泊した大型船が天へと打ち上げられていたが、「旅立つ者」の数が少なくなるにつれ船は小さくなっていき、海に浮かべる必要さえなくなった。
カナサ夫妻の船は公園の池の、ボートほどの大きさしかなく、灯台に繋がった桟橋に設置するだけで事足りた。
一行が辿り着いた港に置かれたドブニコの「船」、それは、椅子だった。
桟橋の真ん中にぽつんと置かれた、木製のやや大きめの肘掛け椅子。誰が見ても、これが船だとは思えない。
ドブニコは何も理解できないままだったが、すでに絶望していた。赤いフードの何者かによって海向きに座らされ、手足を拘束された。
赤いフードの何者かに促され、私は桟橋から遠ざかった。首を振り泣き叫ぶドブニコの後ろ姿が目に入った。ドブニコの声は聞いたことがないほど甲高くなっていった。
海面の水位が上昇するとともに、ゆっくりと桟橋そのものが浮かび始める。
そして、灯台を桟橋に乗せたまま、天へ天へと昇っていく。
ドブニコはすっかりおとなしくなっていた。
なおも上昇し、闇に向かい加速を続ける。それは私が今までの「旅立ち」で見たことのない動きだった。
闇の中心をめがけ、桟橋が、灯台が、ドブニコが突き進んでいく。
灯台の光が闇の正体を照らす。そこには塊が浮かんでいた。無数の手足が絡み合った、ミイラ化した遺体の塊が闇を覆い尽くしていた。
「旅立つ者」たちの遺体の中心を、灯台が乱暴に突き破る。埋もれた灯台の先端が爆心地となり、周囲はドブニコもろとも粉微塵になった。
火種は塊全体にまで広がり、「旅立つ者」を焼き尽くしていく。
炭化した「旅立つ者」は塊から少しずつ解けながら、ばらばらに落下し、海へと還っていった。
闇を照らす輪っかは、「旅立つ者」の火葬に合わせて大きな光となって、やがて太陽が顔をのぞかせ、かつての青空を取り戻した。
天に昇った者たちは貴賤なく、平等に、同じ結末を辿った。たったひとり、勇敢なドブニコを除いて。
しかしもうドブニコの残骸を目視することは不可能だった。
「くだらないなぁ、ヒトは」
灼熱の太陽に照らされ、ついに立っていられなくなった私は、崩れるように膝をついた。壊れた右膝の外装パネルから突き出した、油圧液塗れのケーブルが、火花を散らしながらバチバチと音を立てる。
立たないと。
立って歩き出さないと。
四散五裂した恋人の、部屋に置いたままの『しょっぱい方舟』の頁を捲らないと。
(了)
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