第34話 おぼつかない夜。(ひよりの視点)
わたしは二度と、なごさんのことで後悔をしたくない。
でも。それでも。
わたしはまたこうやって、なごさんの後ろめたさを利用して、自分の我が儘に付き合わせようとしている。
なごさんは断れないだろうという計算もあった。
これまではそういう好意――と言ってもいいだろう。少なくともなごさんはわたしのことが嫌いなわけではないと思う――を利用するような真似はしないよう気を付けていた。
でも。それでも。
今回だけはどうしても、なごさんの協力を仰ぎたかった。
そも、そもそも、わたしが睡眠中に見ただけの映像を、今現在の現実の世界に当て嵌めようなどとは考えていない。夢のようなピースが綺麗に実世界に塡まるとは思ってもいない。
わたしはこれでも、現実主義者なんだ。
本当は、夢から目覚めてすぐ行動に移したかった。けれども、誰もいないところで何かあればまた、なごさんは憔悴してしまうだろう。
夢は、時間とともに薄らいでいく。残滓を辿ることしかできなくなる。虫食いだらけの記憶を呼び起こすためには、より鮮明な映像が残っている方がいい。
そう考えた。
なごさんは唯一、わたしとあちらを共有しているから、何かをサジェストしてくれる役割になり得るかもしれない。
そう考えた。
否否、否、そうじゃない。わたしは。
わたしがどうしても共有したかったのは、今の感情の昂ぶりであって、初めてあちらでのまともな人間関係の記憶を手繰り寄せたくて、この孤独感から、なごさんに救い出して欲しいと願っているだけだ。
だから、奈央ちゃんにだけは絶対に話せない。こちらで不遇だったわたしを助け出してくれて、今も支えになってくれている奈央ちゃん――には、あちらのことで煩悶している弱り切った姿を見せたくない。
だってわたしには奈央ちゃんがいて、若菜ちゃんがいて、気に掛けてくれるなごさんがいて、決して孤独なんて感じてはいけない。それが道理なんだ。
でも。それでも。
抱え込みすぎた苦しみに、抗えないでいる。
弱いわたしがいる。
――断片的に覚えているあちらの光景は惨烈なものでしかなく、特に中学三年生になってからは、あの時以外、まともに言葉を発した記憶すらない。
あの時だって、わたしが一方的に怒鳴りつけたようなものだった。何を今更……こうなるまで放置しといて……浮かんでくる言葉を吐き出すこともできずに、わたしはなごさんに、小さな悲鳴を上げさせるほど大きな声で、「帰れ」と罵声を浴びせた。何度も。
それだって。
今思えば、別に誰でもよかった。
ただ、お見舞いにくるだなんて、奇特なクラスメートがいるだなんて思ってもいなかったから。なごさんに連帯責任を被せようと、わたしの性格の嫌な面が噴出してしまった。
――わたしたちは互いのスマホのライトを地面に、周囲に向けながら、まずキャンプファイヤー場を目指して歩く。屋外施設のおおよその場所は覚えている。あちらで三年前に来たのもあるが、パンフレットを何度も読み返している。
それでも辺りの灯りは少なく、足下は常に覚束ないため、移動には思った以上に時間が掛かる。
向かい合わせに建っている宿泊棟の間、ちょうど真ん中に庭園があって、石で囲まれた周囲に、ぽつんと小さなライトが灯っている。キャンプファイヤー場はそのすぐ近くにあり、それを横切ると炊飯場に辿り着く。
――不意に聞こえた話し声に、わたしたちは瞬時に反応した。スマホの光を服で覆い、しゃがみ込んで暗がりに身を寄せる。息を殺しながら、声の主が誰なのか確認しようとした。
「キキちゃん、また怒られるからやめときなよ」
「ちょっとバーナー使うだけだって。お湯沸かして、コーヒー煎れたいじゃん。コーヒーミルもドリッパーも持って来たんだ」
呆れた様子で後ろからついていく八木さんと、ナップサックを背負ったキャンパー気取りの市島さん……。顔見知りとはいえ気づかれると面倒なので、人差し指を立てて口に当て、なごさんの方を向く。
市島さんたちが、反対方向へ遠ざかったのを確認し、立ち上がった。
キャンプファイヤー場を後にして、炊飯場へとゆっくりと進む。竈やシンクが並ぶ、屋根付きの区画の脇の地面を照らすと、奥の方へ真っ直ぐ敷石道が続いている。
「あのさ、ひよさん。僕、ここ来たことある。思い出した」
なごさんが出し抜けに言った。
「この林道を進んでいくと、旗が並んでるよね。道に向かってこう、両方からお辞儀するように」
なごさんが、両手の指の先を合わせ三角形を作ってわたしに見せてきた。林道を少し進むと、道の左右に竹筒が設置してあって、斜めに旗竿を挿せるようになっている。
いとも簡単にあちらの記憶の一部を蘇らせたなごさんに対して、やっかみそうになる。
「一念の旗」
「何それ」
「クラスごと、一旒の旗にひとりずつ字を書くの。一念発起の一念。目標とか願望とか、そんな感じのことを書くの、一年間の一年ともかかってるんだよ」
なごさんに説明する。
「つまり、ひよさんが夢に見た友達は、その一念の旗を挿してたってこと?」
「たぶん……もちろん、何かが見つかるなんて思ってないよ。だって、わたしたちはまだここに来て、旗に何も書いてないんだし。どのクラスもたぶん」
何かしらの手掛かり、イメージの断片でもいい。あちらに繋がる何かが欲しかった。それ以上を望みもしていない。
現実は、とてもつまらないものだと知っているのだから。
林道を進み、すぐに旗の並ぶ場所に辿り着いた。辺りは真っ暗だったけれど、二台のスマホを駆使して、ぼんやりと全体を照らし続ける。いくつもの大きな布が斜めに垂れ下がっている。
一番手前の旗に光を当て、端っこを手に取って広げてみた。黒いペンで書かれた、それぞれ筆跡の違う文字が目に入る。しかし、何が書かれているかはわからなかった。
「なごさん、これ読める?」
「いや、読めない。文字だっていうのはわかる。たぶん下の小さいのは名前だよね。でも、わからない」
諦めて次の旗、次の旗と光を当てながら広げていく。どの旗も、見ていると頭がもやもやしてくる。これは自覚者であるわたしたちが認識できていないからだ。
奈央ちゃんの彼氏と同じ。わたしと奈央ちゃんは、若菜ちゃんが語る彼の名前を認識できない。
なら、ここにはなごさんではなくて、自覚者じゃない者を連れてくるべきだったんだろうか。若菜ちゃん? でも、どんな理由をつけて連れて来られる?
一番奥の旗まで行って、諦めて引き返そうと考え始めていた。記憶は何も蘇りそうにない。なんのヒントも得られそうにない。
――だから。
びっくりした。
遠目にも、一つだけなんの違和感もなく、堂々と主張している旗があったから。
一番端、一番奥にあるその旗は、真新しい、おそらくつい最近設置されたもので、圧倒的な存在感でわたしの目を奪う。否でも応でも駆けつけて、すぐに確かめるしかない。
そっと、旗を広げる。大きな文字でまず目に入ったのは、
『みのり園 一期生』
の文字だった。
学校名なのか団体名なのかは、わからない。ただはっきりしているのは、文字を理解できるということだ。周りの文字に目を凝らす。メッセージと個人の名前らしきものがそれぞれ。
『華麗に復活します テミ』
『またスポットライトを浴びたい 薫子』
――だけど文章として読み取れたのはそのぐらいで、他は、みみずのぬたくったような、判別のできないものばかりが並んでいる。
でも。それでも。
何か手掛かりになるものが欲しくて、わたしは旗竿に巻き付いている旗を丁寧に外して、全体が見えるように広げた。
そして。わたしは見つけた。
『日和に会う 宗悟』
――瞬間、脳が弾けたような衝撃が走って、わたしの頭の中は教室の情景に縛り付けられた。然うして、窓際に追い詰められたわたしは、
『飛べ』
と、金髪の男子生徒に顔を近づけられ、命令される。わたしは震えていて。震えていて。震えていて。その表情を見ることができない。それから、
『飛べ』
と。
『飛べ』
と。
『飛べ』
と。
何度も何度も、上からも下からも左からも右からも、
『飛べ』
と。
長王宗悟に言われ続けた。
コメント なんでもかんでもコメントを……ください