第20話 教師生活一ヶ月。
玻璃は疲れた表情を浮かべながら、学校の裏門へと足を向けた。こちらから出れば確かに家への近道になる。
だが、その帰路は曖昧で、進む道筋も定かではない。
いつもタバコを買っているコンビニの名前さえ知らないことに思い至る。
しかし、玻璃はすぐに考えを振り払った。深く考えない性格だからこそ、この状況を受け入れられているのだ。
もしすべてを深く掘り下げれば、この世界での日常はさぞかしストレスフルなものになるだろう。
旧校舎裏に差し掛かると、花壇の方から耳慣れた声が聞こえてきた。
「玻璃ちゃん! もう帰っちゃうの?」
声の主、二年生の市島姫姫がスコップを手に持ち、スコップごと手を振っている。
その姿を見た瞬間、玻璃の頭にはさっきのモブ谷が三角定規を振り回す姿が浮かんだ。
モブ谷の最期の解体シーンを思い出し、小さく「げ」と声が漏れる。
「お話ししようよ」
姫姫の馴れ馴れしく無邪気な態度に、玻璃は眉をひそめる。
「言っただろう、私は忙しいんだよ」
玻璃はぶっきらぼうに返したが、姫姫は気にする様子もなく続ける。
「明日から一年の担任になるんだもんね」
その言葉に、玻璃は心の中でツッコんだ。
〔なんで知ってんねん〕
玻璃が思考を整理する。目の前の市島姫姫は管理者の一人、通称『Z』の妹だ。夜澄校長も同じく管理者『ヨスミ』。二人で情報を共有しているのは当然のことだろう。
〔筒抜けか。まあ、そうやろな〕
そう考えると、夜澄校長が保健室での一件を知っていても不思議はない。
〔いや怖いわ、管理者。よう知らんけど〕
玻璃は淡々と受け止めた。
〔だけど、市島姫姫は管理者当人ではないんよな。特殊能力とかは持ち合わせていないはず。正直に話してくれてりゃの話やけど〕
自覚者に対しては、なるべく包み隠さず自分のことを話すのが玻璃流である。もっとも、それもある意味演技のようなものだ。
当然、玻璃にも軽々しく口外できない事柄は存在する。だが、玻璃の豊かな人生経験から紡ぎ出される断片的な話でさえ、高校生たちにとっては信頼の証しとなり得る。
玻璃が頑なに守り続けているのは、嘘をつかないという一点だけだ。
「で、市島、私に何か用があったんじゃないのか?」
玻璃は、少し疲れた様子で姫姫に尋ねた。
「そうそう、校長先生に頼まれてこれを渡しにきたんだよ」
姫姫は、今思い出したかのように明るく答えた。
数枚の印刷された書類が、玻璃に手渡される。
「玻璃ちゃんが担任するクラスの、自覚者のリストだよ」
玻璃は書類に目を通し、思わず息を吐いた。予想以上に名前が並んでいる。
「こんなに……?」
「もちろん全員かどうかはわからないよ。確かめようがないから」
姫姫の補足を聞き、玻璃は軽く頷いた。
「そりゃそうだな。自覚者なんて、本人が言わない限りわかりようがない」
玻璃は、確固たる口調で続けた。
「にしても、一つのクラスにこんなにいるとは、ちょっと想像していなかったな」
「一人も確認できていないクラスもあるし、かなり偏ってると思うよ。だから玻璃ちゃんが任されたんじゃない?」
「うーん。最も問題が起こりそうなクラス……ってことか。だけど、私は今まで通りやるしかない。自覚者とそうでない生徒の対応に差があってはいけないからな」
その言葉には、教育者としての信念と、この世界への皮肉が混在している。
姫姫はその言葉を受けて、おどけた様子で拍手し始めた。
〔この子のこういうとこ、鬱陶しいなぁ……。周りと上手くやれてたらええんやけど〕
玻璃は、心配そうに姫姫を見つめた。教師としての責任感からか、姫姫の学校生活を案じる気持ちが芽生えていた。
しかし、姫姫はそんな玻璃の心中を察することもなく、ただ不思議そうにきょとんとした表情を浮かべていた。
「市島、ありがとう。私は明日の準備があるから帰るよ」
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